昭和44年06月29日 朝の御理解



 御理解 天地書附
 「御教えはいつも白紙で頂くことが大事です。」
 「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい。」

 御道の信心でいうお題目ね。いうならここのところをいつも心の中にまぁ唱え続ける。そういう大事な御教えですね。これをお書きになって参って来る信者に、一番見える所に貼っておけと教祖は仰ったんですね。柱にでもなんでも一番見える所に貼っておけと。そしていつもこの事を思え祈れとこう仰るんですね。私は御道の信心は願いに始まって、やはり願いに終わるんだなという事です。願いに始まって願いに終わる。でないと本当の信心の生き生きした迫力を欠くようです。
 例えば天地書附の生神金光大神も、これはもう願い。願う願う時に生神金光大神とこういう。天地金乃神も願いね、一心に願えばやはり一心に願う、おかげは和賀心にありと仰るから、やはり和賀心にある事を一心に願う、しかもこれを今月今日で頼めいっと願いである。もう願いなんだ。今月今日ということは、もう今月今日只今と言う様なふうにも頂けるでしょう。刻々と言う事も言えるでしょう。ですから金光様の御信心は、願いに始まって願いに終わる。
 私は思うのに成る程、祈りの内容を願い祈り、お詫びお礼とそのお礼が大事だ。お詫びが大事だというので、もうお礼ばかり申しております。お詫びばっかり致しておりますという人があまりにも多いところに、金光様の御信心が本当の白熱化してこんじゃなかろうかとね。私自身誰かここに、あのう創価学会の新聞を誰かが私に見れって言うて言わんばかりに置いて下さってあるんですね。誰が置いたか分からん。
 それを見てみますともう実にそのう言わば、このう白熱白熱化と言うかね、あのう本当にこうもう見出しを読んだだけでですね、まぁ飛び付きたいような生き生きしたものを感ずる。そして内容を読んでみると、実に程度が低いですねぇ。そりゃもう金光様の御信心に問題にゃならん程程度が低いですよ。だからちょっと読んだら読む気色がしない。スクラム組んでたとえ建設だいそう運動を、21世紀を担う人材の芽生えとか、おお者勇者の集い、真紅を着る喜びの決意。一線の中に光放つ大金家。
 こう見出しにはね、もう新聞一杯にそのう生き生きしたというかね、そのうそういうものを感じるですね。本州最南端に歓喜のオブジェ有り、あの日御歓喜、私の感激、最近孤独に満ちた集まった同志、不断の精進重ねよう、親密な戦い固い関係、リラックスを与え力を結集、規則正しい生活その地の戦い寮生活、本当に何処をちょっとあのう読まにゃおられんと言った様な見出しの中に、内容は今申しましたように、本当にまぁある意味で幼稚だと私は思うんですけれどもねぇ。
 そのう願いに満ちているんですね。ですからそのうやはり生き生きしている。例えばね、本当にこのようなおかげを頂いて、その神恩報謝の心有り難いというお礼の心が、例えば今日のような、なら雨風をついてお参りが出来るでしょうが。本当にこのことをお詫びせんならんから、今日のような雨風をついてお詫びに出て来れるでしょうか。本当に私はですね、やはりその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、雨だから風だからというて、それを厭うちゃならんというふうに教えて頂いておる。
 その身に徳を受けるおかげを頂きたいからの修行と思うから、私はこの雨風をついて皆んなが出て来れるとこう思うのです。願いですね。ですから私は金光様の御信心は、やはりこのう願いから始まって願い願いで終わると。その内容にもちろんお詫びは、いうなら御神前に座らせて頂いていうなら何を言うかというと、「この雨風の中をお引き寄せ頂きまして有り難うございました。」なんでしょうが。初めてお礼なんです。けれども出発の時は願いです。
 御神前に座らせて頂いて祈らせて頂いておると、あれもお粗末これも不行届きと、お詫びが出て参りますけれども、やはり始めは願いから始まる。それはねやはり授ける者受ける者、神様がおかげ下さるもの下さる方。私共はおかげを受ける方の側ですから、これはもう当然そうだと私は思うです。神様は下さる方の側、私共は頂く方の側ですから、願いになるはずです。こういうところは一番初めに申しますように、御理解はね、白紙になって聞かんといかんですよね。
 新しいものとして入っていかん。お礼が大事お詫びが大事とね頂く場合もあるのですから。今日は私は願い。金光様の御信心は願いに始まって願いに終わる。天地書附を見てももう、生神金光大神から最後の今月今日でたのめいまでが全部が願いだ。願いの表現だ。金光様と言う願いなんです。天地の親神様はお縋りする、いわば対象なんですね。一心に願え。そこでです願いに始まって願いに終わる、いわゆる願いを立てるからこそ、修行が出来るということなんです。
 ですからそのう願わせて頂く。願う姿勢。今月今日で頼めと仰る、頼み方頼み方。一心に願えと願う姿勢。だから信心は結局願う姿勢ね、頼むそのう態度とでも申しましょうか、それがだんだん高度になっていくと言う事だと思います。だから願いの内容は段々だんだん変わって来るのです。しかもその願いの内容が、立派になって来ればなって来る程、高度なものになってくれば高度なものになってくる程、いわば信心は白熱化して来るのです。熱心になって来るのです。
 ですからお互いの信心の態度というか、いわば願いの態度というものがですね、昨年も今年も同んなじ態度であったら、それは信心が進んでいないということになります。ちょいと頼みますという事もありゃねぇ本気で頼みますという事もある。願う頼むその内容がですいよいよ高度な所に段々置かれていくという事が、信心が高度になっていくことであり、信心が成長していくこという事なんです。
 昔の支那のお話しの中にありますね、ある青年が立身出世を志していわゆる大志を抱いて都に昇るという。その故郷を出てからすぐの所に、大きな川を渡らせてもらう橋の上で、あるそのうまぁお爺さんと白髪のお爺さんと橋の上で出会う。そのお爺さんがその青年の顔をしげしげと見て言われることは、「おまえはね志しを立ててまぁ都へ昇ろうとしておる、その心掛けは大変立派なんだけれどもね。お前の今のような心の状態では、立身出世はおぼつかない。
 ついてはお前にそのうそういうそのう心に対してですね、自分がもう間違いなく立身出世をさせてもらういわゆる秘訣をこつを教える。明日の朝またこの橋の上で会おう。と言って別れた。それで出かかっておるそれをまた取って返してから、明くる日朝早く行ってみるともう既にそのお爺さんは来ておられた。その前にまだあったですね。ちょうど橋の上でその一番会った時にですね、そのお爺さんが橋の上から自分の履いておる靴を、そのう川の中へ落とした。わざと落とした。
 そして「君すまないが、あの靴を拾って来てくれ」とこう言われた。失礼な爺さんだと思ったけれど年寄りだからと思うて、拾いに行ったとこういうんです。そしてその靴をお爺さんに捧げる時にです、そのお爺さんがその青年の顔を見て、それを言われたということなんです。今時珍しい年寄りの靴を捧げ、しかもそのうわざとと思われるような、そのうお前が拾うてこいと言うてもよいのだと、やはりあのう拾いに行ったというところにですね、そのお爺さんは着眼した訳ですねその青年に。
 そして立身出世の秘訣を朝教えようとこう言った訳です。それであくる朝行った所が、もうすでにお爺さんは来ておられた。「おえはあのう習う方ぞと私は教える方ぞ、教える方よりもお前が遅く来るということがあるか。さぁやり直せもう一度明日出直してこい。」明くる日行ったけれども、また来ておるお爺さんの方が先になった。そこでその青年は、明くる日はもう一睡もせずにですね、橋の上でお爺さんが見えるのを待った。ようやくお爺さんがこんな風でやって来る。
 そして初めてそのう立身出世の秘訣を、の伝授を受けたというお話しなんです。受ける方の側のこれをこれが姿勢なんですよ。頂かなければならん者の態度なんです。私は金光様の御信心にはね、やはりおかげに始まっておかげに終わる、いや願いに始まって願いに終わるのですから、その願わせて頂く態度が段々だんだん良くなってこなけりゃいかん。いわゆる頼むそのことにです私は工夫を要するという訳です。いわゆるお話しを聞くばかりが能ではない。我が心からも練り出せと仰るのはね。
 こういう願い方こういう頼み方でおかげを頂くはずはない。また頂かんならねこれは願い方頼み方が、まぁだ間違っておるんだと悟らせてもろうて、願い方を変えていくんだと、願う態度を変えていくのだとそういうことになるでしょう。初めの間はちょっとお願いしますでも、おうおうと聞いて下さるかと思うとね、段々だんだん信心が巧者になってまいりますと、神様が願うても願うてもね、それこそおかげの方はびくともせん。そこでこれはまぁだ信心が足りんからだというのもです。
 願い方頼む姿勢が出来てないことを悟らせてもらって、そこに様々な御教えが有るわけなんですよ。こういう心の状態で願っちゃいかん、こういう横着な態度で願っちゃいかん、こういう我儘な態度で願っちゃいかん。それを実意丁寧とこう仰る。実意を持って願えとこう仰る。実意を持って願う、果たして実意を持って願っておるだろうか。先日丸少の幹部の人達がやって参りまして、今度御本部に参りますのに、本部の方からお互いおかげを頂いておる教会の親先生から。
 実意ということについて御教え御理解を頂いて来るように、それを原稿用紙二枚に纏めて出すようにと、言う様な通知があっておった。先生ここへ来てそのう実意と言う事はどういうことですかと言うてお伺いをするんです。そりゃまぁとにかくもうこれが一番金光教の信心じゃ難しかっちゃん。ここが分かってここが頂き磨いたら、もう金光様の信心のが分かったと言うても良いくらいなんだ。と言う程に難しい事でありまた大事な事である。だから一言、二言でのとても言える事じゃないけれども。
 と言うて私は三代金光様がある青年に教えられたという話しをさせてもらった、二人でかしこまって聞きよりました一生懸命。けれどもちょっと待って下さい、今の話をテープに入れて下さいと言うてから、わざわざテープ持って来てそれを御理解を、テープに入れてそれを提出致したようでございます。ある青年が金光様の所へお礼参拝した。成人式を終えて今お礼参拝したという訳でしょう。で私ももう大人の仲間入りをさして頂いたのでございますから。
 これからどういう心掛けで、世渡りをさせて頂いたら良いでしょうかと、どういう目当てを持って、信心を進めて行ったら良いでしょうかということを、三代金光様にお伺いさせて頂いたら、三代金光が「実意になられたら結構です。」とおっしゃった。もう金光様の信心はこれなんですよ。実意になられたら結構ですと。ところがさぁその実意ということが、大変難しく感じた訳ですよねぇ。そんなら具体的に言うたら、実意とはどんな事だろうかと思うた。
 ですから「お言葉をお返しして相済みませんけれども、金光様実意とはどういうことでございましょうか。」とお伺い更にさせて頂いたら、金光様が仰っておられます。「わがままと横着をしなければ結構です。」と仰った。そこで私が少年少女会の方達にです「僕たちの心からね、わがままを差し引きね、横着を差し引いたねいわば私達の心マイナスわがまま横着、イコール実意ということになるんだ」と。とそのう説明をさして頂いたんですね。ですから金光教の信心の願いというものがですね。
 初めの間は願いに始まる。始まる時にゃ分からんのですから、お願いします頼みますと。例えば祓つ物がやら遠方からやって来よります。それは親戚の方達がそのうまぁ知り合いの方達に送ったんでしょう。したら遠方からそんならお願いします、お願いしますというて祓つ物が来よる。来よるというだけなんです。中にゃそりゃお初穂を入れちゃるともありますけれども、只それだけを書いてお願いしますというて、送って来ておるだけのものも幾らもある。
 けれどもそれでもおかげは下さるんです。頼みよるのですから。けれどもそれが繰り返されたんじゃおかげにならんです。頼むからにゃ余りに実意を欠いておる訳なんです。だから実意をもって願えとこう仰る。これはひとつの例ですよもう様々に有ります。願いに始まって願いに終わる、けれどもその願いの内容というものが、段々だんだん高度なものになっていく、十年前願いよる事も十年後の今日願いよる事もたいして変わりはない。自分の一家の事ばかり、お店の繁盛の事ばかりね。
 これではやはりちょっとおかしい。十年も信心を続けたのですから、願いというのはもっともっと高度なもっともっと大きな、私しゃ神様が喜んで下さる願いに、変わっておらなければならないのに変わっていない。話を聞いてそんなら今日から変えようかという訳にはいかん。信心の内容が詰まっていかなければね。大きな事が願えれるその内容がただ大きな事をいう、世界真の平和を願い世界総氏子の助かりを願う、その世界の中に日本があり私が有るんだから、おかげ頂くというのですけれども。
 果たしてその真の世界の平和とか、総氏子の助かりと言った様な事がです、本当に願わなければおられん願いとして、いわゆる実意を持っての願いになっておるかどうかです。空々しい願いそれではつまらん訳ですよね。ですから一段信心も手習いも同じ事と、一段一段と仰るのだから、一段いちだんその願いが高度なものになって行かなければならないという事です。しかもその願いというものはね、いよいよ大きな願いになってゆかなければならないという事です。
 だからです今日私が申します様に、そういう願いをもっておるから、今日のような雨でも風でも、それをおかしてお参りが出来るんだということ。大きな願を持っておる、その大きな願いを持っておるから、その願いが成就する事の為にゃ、先ず力を受けなければならない徳を受けなければならないと思うから、その辛抱こそ身に徳を受ける修行と仰るから、雨風もなんのそのでいわば参って来るのです。力を受けなければならない、し
かもこういう大きな願いを立てておるのであるから。
 このくらいな修行はもう当たり前として、その修行が慣行されて遂行されるね。そしてここにお引き寄せを頂いて、神様の前に跪づかせて頂いた時に出て来るものは、やはりお礼なんです。ようも今日の様な雨風に出らせて頂きましたと、その喜びがお礼になって出て来る。けれども始めはやはり願いから、願いからでなからばね本当の信心が、いわゆる白熱化して来ない。こういう大変な事を願っているのに忙しゅうございますから、こういう大きな願いを立てておるのに、ちょっと自分の都合がございましたからと。
 これでは今日いう願いの態度がなっとらん事になりますでしょうが。そういう願いを立てておるから、普通から言うたら出来ない所を、出来させてもらえれる願いを立てて。そげぇんな無理をしなさらんでもこの雨の中に出て行きなさらんでも、と例えば受ける方の側は思いもする言いもするけれども、やはりその雨の中にでも、その雨をおして出て来るなら聞いてやらんわけにはいかん。そういう働きがある訳ですね。「雨の降る日はおじゃるなと言うに、濡れておじゃれば尚可愛い」という訳なんです。
 今日のような雨風の日に出て来なさらんでも良いのにと。でも出て来なければおられないそこにです、やはりおかげが頂ける訳なんですね。今日私しゃもう金光様の御信心は、この天地書附の全部がもう願いの私しゃ表現だと、「生神金光大神天地金乃神一心に願え」金光大神もね金光大神も天地金乃神も、こりゃ願うの言葉だとね。おかげは和賀心に有り。一切が和賀心でないから、和賀心である事を願わにゃおられない。全ての事が今月今日ただ今より、一切の事が願わなければおられないのであり。
 また願えと言うておられるのである。けれどもここに求められる事はです、願う態度ね願う要領、そこんところを教えを頂いてね、その願いが叶うような、こちらの信心態度というものを作っていかなければ、ならないということなんです。またその願いの本当にはっきりして来ないと、信心にそのういわば熱心な信心というのは出来ない。それはお礼と言われお詫びと言われるけれども、とてもどんなに考えてもねとてもこの様なおかげを頂いておるから、お礼参りさせて頂かなければおられんのだけれどね。
 この雨風をついてお礼参りということはなかなか難しい。出来ん事じゃないけれどね。それが人間なんだ。しかしそれでいいのである。なぜってね。授ける者授けを受ける者でしょう。おかげを下さる方の側が神様なら、こちらは頂く方の側でから、こちらが差し上げる訳にはいかないのですから、やはり願うんですからだから願う者の態度、それをね例えば今日の御理解で言うと、実意と。私共の願いが実意を欠いておる様な事はおないしょうか。布団の中からどもお願いしますと言う様な事はなかろうか。
 それこそその白髪のお爺さんじゃないけれども、私は教える方の側だぞと、あんたは教えを受ける方の側だぞと、その教えを受ける方のあんたが、私よりも遅いという様な事でどうするか、教えられん。明日もう一度出直しだと。もう理の当然だと思う。ここんところをです、願う態度ということをです、もういよいよ私共は研鑽研修してゆかにゃいかんね。その頼む内容である。もちろん今日私が申しますようにですね、大きな願いを立てれば大きな願いを立てる程、修行が楽になって来る。
 いわば始の間は誰だってただ願いである頼みである。それは実は幼稚な事から始められるのは誰でも同じ事、願いによって始まるのである。けれどもです段々その願いが高度になって来るとです。もうそれこそ神様の願いを我が願いとしての願いと言う様な、偉大な大きな願いになって来るんですよ。例えば世界の総氏子の身の上安全なんかを願うということは、もう神の願いなんです。ではそれが本当に実際実感を持って願えれるようになるということは大変なこと。
 そういう大きな願いを立てておるのであるから、この位な修行はとても問題じゃない程に、ものの葉にでないというところに、はぁようこういう雨風の中にでもお参りが出来ますなぁと言う様な修行が出来る訳なんです。今日はその願いのそのう態度とか、頼む姿勢の一例を申しましたが、それぞれ信心の程度に応じてですね、もう金光教のご信心は願いだけでいいんだと、願いに明けて暮れているんだと、願いに始まって願いに終わっていいんだと、いやそれを神様は求めてござるんだと。もちろんね。
 もちろん願いが叶うていくところにです、またおかげを自分で悟るところにです、お礼ということが出てくるのであり、またお詫びやなども出て来るのですけれども、なんというても願いなんです。だからその願いがいよいよ高度な事になって来るところに、信心の進む信心の進展というのが育つということがある。そこでんなら実意を持って願えと仰るその、果たして実意を持って願っているであろうか。形は実意のようであっても、内容はどうであろうかと、それを確かめながらですね進めて行く。
 私の願いは実意を欠いておりゃせんだろうか、我儘な願いではなかろうかと、横着な願いではなかろうかと、そこに横着と分からせて頂き、我儘と気づかせて頂いたら、そこからお詫びが始まる。このような不行き届きな願いで相済みませんれどもということになって来る。そしてその願いの態度を、いよいよ実意に満ちた願いに、ならせて頂くところにお道の信心がある。天地書附はもうその全部が、願いの表現だと、私しゃ今日は思わせて頂きました。
 願に始まり願いに終わる、これが金光様の御信心。だから信心がいよいよね、信心のない人達では分からない、信心の迫力というものが出て来るんだと。どうぞひとつ願いをもっとも高度なものにしていくと同時に、願う態度をです、いよいよ自分の内容を検討してね、実意ないわば心を持って願わせてもらえる信心に進んで行くということ。それが信心が進んで行く来とだと私しゃ思うですね。
   どうぞ。